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全人格の否定 Ｍ君が、マッチのいたずらをする。そんな現場を見たものなら「こら！Ｍ！何をやっているんだ駄目じゃないか、ばかもん」と大きな声で、遠くからでも怒鳴っていただろう。そんなときのＭ君の反応は絶対にこうである。「もうしませーん。お父さん来るよ。ごめんなさい。温泉。バス乗るよ」大声で叫びながら職員に近づいてくるだろう。拳で、強く、２回、３回と自分の頭部を叩くだろう。残念ながらこれは下手な叱り方だ。大声が出た時点で、何のことで叱られているか本人には解らなくなってしまっている。頭ごなしに、威圧的に叱られることは、Ｍ君にとっては、全人格を否定されることなのだ。＜お前は、駄目なやつだ＞と。 この場合には、彼の認知レベルに留意しながら、やめさせたい行動だけを彼の解る方法で伝えなければならない。まずＭ君を穏やかに近くに呼ぶ。そして、Ｍ君はいい子だよねとＭ君の存在を十分認めていることを伝えておく。さらに、マッチを見せてごらんと手を取り、マッチをいたずらしたこの手は悪いと、厳しく、瞬時に伝える。Ｍ君のことを大好きだし、Ｍ君はとってもいい子なんだけれど、いたずらをしたこの手は駄目というわけである。正しく伝われば、彼は、決して大声は出さない。うなだれて、申し訳なかったという態度を表出する。 ストレス行動と挑発行動 水遊び、泥遊び、穴掘り、溝作り、紙破り、破衣、他害、器物破損等々。いろいろの問題行動というものがある。同じ行動であっても、それがストレスの結果であるのか、挑発という対人関係上の問題なのかを見分けることは重要である。なぜなら、ストレス行動ならば、頭ごなしの制止は、かえって強迫的な様相を深めるだろう。しかし、挑発行動であるなら、止めるなり、許すなり、いずれにしても、きちんとした勇気ある対応が、行動変容に有効だろう。 こんなことがあった。畜舎での作業中に、やっている大好きな作業を途中でやめさせたとき、即座に彼は、流しへ走った。そして、水で満杯のポリバケツをひっくり返した。これは明らかにストレス反応であって、気を引きたいためにやっている行動などというものではない。もちろんこだわりなんてものでもない。 こんなこともあった。二人で散歩している最中には全くない唾吐きが、学園に戻り、靴を下駄箱に入れてねと言った途端、再開されたのである。こちらもストレス反応で、こだわりや挑発行動ではない。 攻撃性の発露であるストレス反応をむやみに制止することは決していいことではない。しかし、挑発行動の中途半端な許容は、その行動をますます増悪させるだろう。 服従と評価 集団処遇においては、止むを得ず、日課にしたがってもらうことがどうしても生じる。そんなとき、指示をきくのが当たり前とつい評価を忘れてしまうわけだが、Ｍ君の個人的な努力に感謝し、「頑張ったねえ」などと声をかけ、肯定的なセルフイメージの構築を助けるような係わりを持つことが大切となる。 |
平成６年１０月、運動会の時期、一瞬のうちにポロシャツ、ズポンを１０枚近く破ってしまう。原因ははっきりしていた。運動会の練習が嫌いなのだ。しかし、「練習しなくていいよ、ここで見ていていいよ」と声をかければ、「運動会、お父さん来るよ」と大騒ぎとなり、パニックに至ってしまう。職員現場は対応に苦慮した。練習は嫌いだが、職員やお父さんの期待に応えようと頑張ってしまう彼。そして、やってしまった後に、イライラがつのり、破衣につながってしまう彼。過剰適応状態なのだ。安心して、ある意味では、自信をもって運動会の練習をサボタージュできないのだ。彼の心の中は、やらないことでの叱責や、それまでこなしていた日課への自閉症的な完遂感から、不安で一杯になってしまうのだ。さらに練習方法が悪かった。運動会の種目は、サーキットトレーニングのように、いくつかの運動を連続的に組み合わせた形で出来上がっていた。一つづつの運動を一つ一つ練習していく。
最初に前転を練習したとしよう。Ｍ君が呼ばれる。運動能力の高い彼は、難なくこなしてしまう。練習自体は、嫌いなものだから、集団から離れる。次の運動に移ったときに再び呼ばれる。そのようにして、練習が進んでいた。Ｍ君にとってこの練習方法は、果てしのない、何時終わるとも知らない、ネバーエンディングの印象を与えるものであった。終わったと思って、あるいはできたと思って集団から離れる。ところが、しばらくして、また呼ばれる。やればやるほど次がでてくるのだ。「これだけやったら終わりだからね」などと言いながら、決してこれだけでは終わらない。「すごい、できるじゃない」とか言われながら、結局は、「じゃあ、もう１回ね」などと言われて、やめることは許されない。もちろんこうして頑張っている姿への正当な評価は全くないのに違いない。その都度集団を離れてしまうのだから。
いくつかの絵カードが、用意された。運動している様子が描かれている。「Ｍ君の練習は、今日は前転です」「これをやったら終わりです」「居室でブロックで遊んで下さい」。今やるべきことは、時系列的な見通しを持てること、正当な評価が得られることの２点だった。
運動会の練習にまつわる彼の破衣は、その日から無くなった。
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イヤと言える生活 なぜ私たちは、毎日毎日働けるのだろう。それはきっと愚痴をこぼせるからに違いない。有楽町のガード下が上司の悪口を言う、会社を終えたサラリーマンで一杯になるように、次の日のエネルギーは、愚痴を言うことができることにあるに違いない。サラリーマンたちだって、昨日の夜、さんざ悪口を言った上司に、笑顔で挨拶ができるのは、愚痴を言えたおかげなのだ。 一方施設では、どうなのか。どう考えても、心の奥底にある文句は、サラリーマンたちより圧倒的に多いのだと思われるのだが、なかなかそれは、表に表現されない。何となく文句は言いづらい。イヤだということを直接的に表現することは、勇気がいることだ。イヤダは、心の奥底に沈殿し、パニックや、自傷や、攻撃性に転化する。無力なのに、相手の不当性を、その都度感じていては、心が疲れてしまうから、要求がないかのごとき、不活発な生き方を選択していくようになる。 不幸なことに、施設は彼らの生活の場所だ。愚痴も言えない、イヤも受け止めてもらえない生活の場所ってあるかしら。愚痴の言える施設生活。これいいよね。 |
穴掘り、土手崩し、溝掘り、水遊び、土遊びなどは、いわゆる自由時間に頻発した。心理アプローチは、別にして、現実的な対応として自由時間の充実は急務だった。アニメ系の歌が好きなのは知っていた。重機、電車系が好きなのは皆知っていた。とにかく、カセットテープレコーダーとテレビデオを使って、いろいろな試みが始まった。いろいろなテープやビデオをダビングしてきては、Ｍ君に手渡した。しかし、対応は、一直線には進まない。何本テープを用意しても、Ｍ君には、もの足らないようだった。どこからでもテープを持ってくる。それは、他人のものであろうとなかろうと関係がない。同じ内容のテープを持っていても、また次が欲しいのだ。
カセットもビデオもボリュームは最大だ。しかもおおよそを、早送りとリピートにて聞いたり見たりしている。特定の場所を見たり聞いたりしたいのだ。機械へかかる負担は相当のものである。
それでも、Ｍ君が居室で過ごす時間は着実に増えていった。テープをダビングして欲しいという要求が職員に対して増えてきた。以前だったら頼まれたことをハイハイとやっていたことも多かったのに、いちいち嫌だなあという表情を見せるようになったりしてきていた。畑作業においても「どうぞ休んでいて下さい」と自分で言って、座り込んでいることが多くなってきた。逆にそれを認めていったとき、水遊びをしているとき、職員が上手に制止さえすれば、素直に従ったり、一人でお便所へ行って、余分ないたずらを全くしないで帰ってこれるようになったりしたのだった。
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Ｍ君チャンネル この頃から、電車の好きなＭ君は、担任と飯田線に乗ることを始めた。そして、そのメンバーは、担任とＭ君と、それまで他害の対象となっていたＹ．Ｍ君の組み合わせだった。あるとき、その小旅行をビデオ撮影し、彼に渡した。Ｍ君は、そのビデオのとりこになった。来る日も来る日もそのビデオを見続けた。 僕たちは、例えば、テレビで、ヨーロッパ横断グルメの旅－ユーロエクスプレス－なんていう番組を想像力豊にしてみることができる。ヨーロッパというイメージも湧くし、地球上のどの辺に位置しているのかもわかる。何やら見たこともないような料理が出てきても、その味は想像力で補うことができる。だから、その番組を楽しむことができる。 Ｍ君はどうだろう。ヨーロッパがわかるだろうか、見たこともないような料理の味がわかるだろうか。Ｍ君を含め、重い知的障害のある方々、自閉症の方々にとって、一番良く解るのは、自分の経験した範囲で見たり聞いたりしたことである。 伊那谷を訪ねて－飯田線の旅－という番組は、Ｍ君にとっていちばんよくわかる範囲にあるものだ。自分が主人公であり、自分のみたり聞いたりしたもの全部がおさめられている。コーラを飲んでいるところ、キットカットを食べているところ、その味、その飲み心地、全てが手に取るようにわかる。 Ｍ君はテレビを見ないのではないのだ。自分の好きな見たい番組をテレビで放映していないだけなのだ。現在のテレビ会社がＭ君個人のために、あるいは、もう少し広い範囲であったにしろ(例えば電車の好きな自閉症の方々向けというような)番組を製作しているわけがない。そんなことをすれば、会社は潰れてしまう。とすれば、Ｍ君向けの番組は、いったい誰が作るのか。それは、一番身近にいる援助者と呼ばれる人たちである。 Ｍ君はテレビを見たいと言っている。好きな番組があればなあといっている。Ｍ君は、番組を作ることができる？作れるのは、僕たちである。本当に助けてもらいたいと思っていることを助ける。これが援助である。 マイフェイバリットソング 私たちに好きな歌があるとき、何かそこには理由がある。楽しい思い出とつながっていたり、辛い思い出とつながっていたり。歌詞の内容に共感したり、リズムが大好きであったりと。 Ｍ君にも好きな歌がある。第一は、宇宙戦艦ヤマト、そしてガッチャマン、サザエさん。いつ、どのような状況でＭ君の心と歌が結びついたのであろう。それは全く確認しようもないことなのだが、今言えることは、その好きな歌の歌詞とＭ君の人生とのあまりのマッチングである。 例えば宇宙戦艦ヤマト。＜さらばヤマトよ＞で始まるこの主題曲。お父さんと別れ、お母さんと別れ、施設で一人で頑張っているＭ君の姿と広い宇宙で一隻で戦うヤマトの姿とはあまりにも酷似していないか。 他にも例えば、すでに面会の途絶えているＫ君、彼の大好きな歌は、もしかしてパート２＜もしかして、もしかして＞この歌い出しのこの一節に彼の想いが全部詰まっている。もしかして、誰かが面会に来てくれるのではないかと。 そして、その歌の好みは、心の成長とともに移っていく。最近のＭ君の好きな歌。プリプリの「世界で一番暑くて輝いている夏」そしてシャウトするのは、「世界で一番愛してる。」のところ。これいいでしょ。 |
係わりの工夫、環境の整備を重ねながらも何かかゆいところに手が届かぬもどかしさみたいなものを感じ始めていた。小さい子への他害は、明らかに兄弟関係の嫉妬、母親へのアンビバレンツな想いから発しているものであることは明確だったし、女子職員との人間関係の不安定さは、継母との関係の不安定さの延長であることも明白だった。
しかし、不完全燃焼の原因は、自分たちの中にあることは、わかっていた。
平成７年３月Ｍ君からそれを突き付けられた。
イヤだの表出が多くなってきていたＭ君は、その日、作業服に着替えることも、作業用の靴下に履き替えることも拒否して、作業に従事していた。そして、何回となく、宮下の目の前で、バケツの水を撒いたり、ズボンのゴムの部分を引き裂いたりしていた。これでもか、これでもかと宮下のネガティブな反応を引き出そうとその試しは続けられた。
何回となく、込み上げてくる怒りの気持ちをぐっとこらえながら、「アーア、水もったいないよ」とか、「後で縫ってあげるからね」とか「そんなことをしても全然Ｍ君のこと嫌いにならないよ、好きだよ」などと言いながら、朝から、おやつ前くらいの時間まで、何とかポジィティブな反応で対応することができた。
しかし、本音のともなわない感情表出では、所詮限界がある。おやつ後の畜舎作業場面で、ついに堪忍袋の緒が切れてしまったのである。相変わらず宮下の前で、水遊びを繰り返す彼、制止すればするほどニヤニヤしながら繰り返す。怒鳴りこそしなかったが、畜舎の後ろへ呼んでの説教が始まった。やってはいけないと思いながらもう止まらなかった。Ｍ君の反応は、やはりあまり芳しくない。聞こうという姿勢はないし、脅えるばかりである。いよいよ宮下の前から逃げ出す。逃げ出されてやっと宮下も目が醒める。この方法ではやっぱり駄目なんだ。追いかける宮下、逃げる彼、できるだけ肩に手を回し、体をくっつけるようにして話しかける。「仕事がイヤなんだ。水遊びが好きなんだ」「Ｍ君はできるはずだよ。この仕事簡単じゃないか」宮下が、体を寄せてくることへの抵抗と、話しかけの内容の不適格さとで、ますます逃げる彼。大声もすでに雄叫びのようになっている。これではラチがあかぬと体育館の前の土手のところへＭ君を呼ぶ。宮下が先に土手座り、彼を呼ぶ。いったん座る彼、しかし、話かけると離れる。寄る、話かける、離れる、それが何回となく繰り返される。そのうちにＭ君の攻撃性が、宮下のところへ向かってくる。宮下の肩や腕に顎を強く当てて押し付けるのである。宮下に攻撃性が向くのは、初めてだった。できるところまで我慢しようと決める。「Ｍ君怒っているんだね。いつもいつもいけないと言われていたから、怒っているんだね」ますます大声が出る。ここまできてやっと宮下もＭ君の伝えたいことが、何となくわかってきた。涙が出るほど顎攻撃は痛い。「痛いよ、痛いよ」と宮下も叫びながら、Ｍ君の心の痛みが段々伝わってきた。「宮下がいつもＭ君を叱ってばかりいたから、それで怒っているんだね」突然、直感が走る。＜Ｍ君は、宮下にごめんなさい＞と謝って欲しいんだ、＜今まで叱ってばかりでごめん＞と謝って欲しいんだと。
しかし、なかなかこのごめんなさいが出ない。Ｍ君の大声はますます激しくなり、顎攻撃の強度は増すばかりだ。
＜ごめんなさい＞を言うことは、この１０年のＭ君への自分の係わりを全く否定することである。こっそり彼だけに言うごめんなさいならともかく、自分の専門家意識を翻させられるごめんなさいだ。
ともかく一回目の「ごめんなさい」がでる。状況は変わらない。そして何分か後に「Ｍ君を叱ってばかりいてごめんね」の一言。これでも状況は変わらない。自分でわかっていた。小手先の言葉で、「ごめんなさい」を言っている自分を。
友達の顔を思い浮かべた。妻の顔を思い浮かべた。我が子たちの顔を思い浮かべた。真剣に、心を込めるときの気持ちとはどんなだろうかを、自分の親しい関係の人物を思い浮かべることで、思い起こさせようと努力した。次第に心が熱くなっていくのがわかった。
「ごめんね、Ｍ君。ずっと叱ってばかりいて。これからやり直すよ。本当にごめんね。」
やっと言葉に心がこもった頃、Ｍ君の雄叫びは、急速に静まり、自ら卵拭きの作業を始めたのだった。
ずっと叱られてばかりいたＭ君、それに起因するだろう迂回する攻撃性、落ち着きのなさ、職員を試し続ける情緒的不安定さ。止まらない収集、止まらない買い物、嫌われよう嫌われようとする否定的な自己像。何か被虐待児をこの行動特徴、性格。
施設で働く職員が無知であり続ければ、施設というところは、直接的な虐待(身体的虐待、性的虐待）はともかくとして、程度の差こそあれ、情緒的な虐待（冷たく接する、叱ってばかりいる、返事をしない、理不尽なことで叱られる等）が、知らず知らずのうちに進行する可能性のあるところではないのか。
