平成17年度　春　クラス新聞｢とちんこ｣

 

『ハイチューふたつ、ファンタグレープをふたつ』

 

 

　まことに手前味噌な話で恐縮なのだが、宮下智著　お心主義辞典【二の法則】の項には、次のような説明がある。

『心の不全感、満たされなさを埋めるために、同じもの二つを必ずペアにして、購入したり、揃えたり、並べたり、身につけたりする行動。おそらくはペアの一方が母親を表象し、もう一方が本人の表象であると思われる。時には父親と母親との対を表現している場合もある。いずれにしても、本人が編み出した無意識的な自己治癒の方法であるので、止めたり、我慢させたりすることよりも、その気分、おそらく依存対象との一体感であると思えるのだが、十分味わうことができる環境を準備することの方が、次へのステップ（エンパワメント）のためのエネルギーを提供することになる。』

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もう十年近く前の昔話なのだが…。

僕らは、Ｍさんともう二十年以上前に亡くなられているＭさんの母親の墓参りに出かけた。場所は学園からおよそ一時間、高速を飛ばし、田舎道を三十分も行ったところだった。

墓参りに出かけるまでの経緯は話せば長くなるのでまた別の機会へ譲りたいのだが、ここでは次のことだけを説明すれば十分なように思える。

Ｍさんの母親は、Ｍさんの入所の後すぐに事故で亡くなっている。残念ながらＭさんは、母親の愛を十分味わっていたとは言い難い。その頃Ｍさんは三才である。さらに皆さんは想像して欲しい。三才の子が、しかも重度の知的障害と自閉性の障害併せ持ったその子が、突然母親が目の前から消えて（亡くなって）しまったとき、それをどう受け止めるかについて。

おそらく『死』は理解できまい。とすれば、Ｍさんは、<母親は自分を捨ててどこかに行ってしまった>、それは<自分を嫌いだからだ>と考えてしまってもおかしくはあるまい。

そのＭさん、買い物は見事な【二の法則】である。ハイチューをふたつ、ファンタグレープをふたつである。

この日、僕らは母親のお墓へのお供え物を慌てて近くのコンビニで調達した。もちろんＭさんも同伴である。

「Ｍさん、お母さんのお墓に何をお供えしようか？」

彼は、分かったのか分からなかったのか、いつものと同じようにハイチューふたつにファンタグレープふたつ、加えてオロナミンＣ。さらに加えてカロリーメイト。こちらはいずれもひとつずつ。

天候は横殴りの風と雨。差した傘が吹き飛ばされそうだった。

僕らにはどうしてもＭさんに分かって欲しいことがあった。おそらく二十才を疾うに過ぎた今の年令でもおそらく『死』については完全には分かるまい。だとしたら、母親は「あなたを捨ててどこかへ行ってしまったのではない、このお墓の中に、この地面の下にちゃんといるんだ」ということと、「あなたを嫌いになったのではない、この地面の下からあなたのことをずっと見守っているんだ」ということを。

仕事の合間をぬって時間を作ってくれた父親に案内されて、墓地に着いた。いずれお金に余裕ができたら立派なお墓をと、予定されている一区画には大きな御影石がどすんとひとつ。これが彼の母親の墓だった。この下に彼の母親の骨が眠っている。いつも飛んだり跳ねたり走ったり、慌ただしい彼もさすがにしんみりしている。<ちゃんとこの状況を分かってる>、彼のしんみりは、僕らにそれを伝えた。冷たい雨が頬を打ち付けている。

「Ｍさん、大切な話があるんだ。よく聞いて欲しいんだけど…」

「お母さん、Ｍさんの小さいときに、急にいなくなっちゃったんだよね。学園に入って、お母さんに会えなくなっちゃったと思っていたら、今度はお葬式だなんて言っちゃって。会いに行ったときには、もうお母さん呼んでも動かなくって。きっと僕のことを嫌いになったんだと思っちゃったよね。呼んでも返事をしてくれないんだものね。いまここで、ちょっと説明したくらいじゃ、すぐには分からないかもしれないんだけど、この石の下にお母さんは眠っているんだよ。ずっとずっと。どこかへＭさんを捨てて行ってしまったのではないのだよ。この石の下で、いつでもＭさんがいい子になるようにって、祈りながら、ここからＭさんを見守っているんだよ。」

彼は一本のファンタグレープを石の上に置いた。

Ｍさんは、二番目のお母さんと全くうまくいかない。世の人はそれを彼の持つ重い知的障害のせいにするかもしれない、また自閉性の障害のせいにするかもしれない。でも、いまの僕にはそうは思えない。自分の本当のお母さん、いまは疾うにいない一番目のお母さんが大好きだから、だから二番目のお母さんとうまくいかないのである。二番目のお母さんのことだって大嫌いということではないのだろう。その証拠に義妹や義弟のことはいつも名前が出るほど大好きなのだから。

彼は僕らの話しているその横で、まずハイチューを平らげた。そしてファンタグレープを一本瞬く間に飲み干した。僕らはちょっといやな予感でドキドキした。せっかくお墓の石の上に置いたファンタグレープをいつものように飲み干してしまったらどうしようと。

彼にはすぐそこにクラス変更が待っていた。僕らとももうしばらくたてばお別れである。僕らには、この死別した母親とのお別れのことが少しでも彼の中で清算することができれば、すぐに訪れるであろうクラス変更によるお別れもうまく乗り越えられるのではないかと考えていた。

人は、たくさんの人たちに愛されたいと願うものである。でも現実的にはなかなかそうもいかない。じゃあいったい何人の人に愛されたなら、人間というものはやっていけるのであろうか？それはたぶんひとり。この世の中にたった一人でも、自分を愛し、大切に見守っていてくれる人がいたなら、それで人間というものはやっていけるのである。辛い状況にあっても、悲しい状況に陥っても、過去に一回でも、ひとりでも、きちんと自分を大切にしてくれた人がいたなら、それで人間は挫けないのである。その一人の人間、それはここではもちろん母親である。施設でいえば、それは担任である。最愛の母親、最愛の担任である。

「ねえ、Ｍさん。いつまでも、Ｍさんのことを見守っていてくれるようにお母さんにお願いしようか。」

彼は僕らと一緒に両手を合わせ、頭を垂れた。

ますます雨と風が強くなった。「嵐を呼ぶ男だね、Ｍさん」担任がつぶやいた。

「さあ、行こう」

Ｍさんは僕らと一緒に動き始める。

彼は、お墓の石の上にポツンとひとつ置かれたファンタグレープに手をつけようともしない。大きな丸い御影石の上にポツンと置かれたファンタグレープ、雨に打たれて佇んでいる。

「ジュース、お母さんにどうぞだね。Ｍさん、ちゃんとお母さんの分だって、分かっていたんだよね。もしかしたら飲んじゃうかもしれないなんて、僕らがＭさんのこと分かってないんだよね。ごめんね、Ｍさん。」

二本買われたファンタグレープ、そのうち一本は自分の分、そしてもう一本は母親の分、Ｍさんはちゃんと分かっていたのだ。

Ｍさんの物語、これからまだまだ十年以上続くのですが、なんだかんだ言って、この日から僕らは【二の法則】を強く信じている。

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Ｊさんは、雑誌を必ず二冊、Ｙさんは必ずハンカチを二枚、Ｎさんは必ずダビングビデオテープを二本、Ｋさんは必ずコップを二つ、……。みんな二つあって安心なのだ。

さらに後日談。Ｍさんは悲しいとき、辛いとき必ずカロリーメイトが食べたくなるのです。心にエネルギーを。きっとそんなところなんだと思います。