平成1８年度　夏　クラス新聞「とちんこ」

 

『今あなたは、あなたのことを一番大切になさい』

 

 

　その日、彼女は突然布団を中庭に持ち出し「ここでねる！」と言い出した。六月も初旬だとはいえ、真夏の夜の暑さを思えば、まだまだそんなに寝苦しいというはずもなく、その行動は職員の目には、ただただ訳の分からないものに見えた。

「どうして中庭に寝たいの？」職員の質問に彼女は大きな声で「きもちいいからです！」とはっきりと答えた。彼女の布団が部屋の外と中を行ったり来たり、職員は部屋の中に寝てもらおうと布団を部屋に戻す、いったん納得したかのようだった彼女だが、５分もたたないうちに布団は再び中庭へ、それは結局イタチゴッコだった。彼女の譲らぬ意志の強さを感じた職員は、最後に止む無く中庭にブルーシートを敷き、その上に布団を敷くことを選択した。時は梅雨の真っ最中、今にも降り出しそうな真っ黒な空だった。

実は彼女はこれから一週間後、再び部屋に戻って寝てくれることになるのだが、この日を皮切りに彼女はたくさんのことを私たちに教えることになるのだった。

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彼女はこの五月の連休明けの新入所である。定員一杯の在籍だった星組からＮさんに雪組への移動をお願いし、その空いた席に入って頂いたというわけである。

そんな彼女、入所当初はきっと誰でもそうだと思うのだが、寂しさを受け止めてもらうために、度々母親に電話をしている。

ある日、朝から何回もかけている電話に母親が出られず、やっと夕方になってつながった電話に、いつもは上手に受け答えができるはずの彼女が「でんわ！うるさい！！」と叫んで、とてもやりとりにならないのである。職員は、受話音量を小さくしたり、着信音量を小さくしたりと慌てて対応したが、いっこうにこの「でんわ、うるさい！」は無くなることがなかったのである。

彼女の心の扉を開ける鍵は実はここにある。職員の対応は「でんわ、うるさい」をこう解釈している。【かの女が「でんわ（の音をあるいは声を）うるさい」（と感じている）】と。しかし、前述の通り、この解釈ではことはうまく運ばない。彼女の意図しているところとは全く違うからだ。彼女の伝えたいことは本当はこうなのだ。【（わたしの）でんわ、（おかあさんは）うるさい（ですか？）】である。一日何回となくかけた電話、母親の声を聞きたくて聞きたくてかけた電話、その電話に母は出ない。私たちならその電話に出ない状況を〈忙しいのだろう〉とか〈携帯電話を傍に置いてないだろう〉とか〈マナーモードになっているのかな〉とかで十分処理をしていくことができる。しかし、彼女は、入所してわずかのこの時期に、そうは解釈できないのである。母が電話に出ないことは、おそらく自分のことを嫌いなのではないか、邪魔だと思っているのではないかと感じるのだろう。私からの電話が鳴っているのを分かっていて、わざと出ないのではないかと勘ぐっていたのだろう（だって彼女の立場に立ってみれば、現在の置かれている状況は、家族と離されて、自分の意志とは裏腹に施設に入所させられてしまっているというのが実態である）。それが彼女の言う「でんわ！うるさい！！」なのである。「おかあさん、わたしのでんわうるさかったですか？」「わたしのでんわめいわくだったですか？」これが彼女の一番確かめたかったことなのだろう。

彼女は自閉症という大きなハンディキャップを背負っている。しゃべることができるなんて言ったって、微妙な言い回しなどとても無理である。その上、物事の感じ取り方は超被害的である。自分のことを悪く悪く考える。その結果がこのようなコミュニケーションのすれ違いを生んでいるのである。私たちはこのことをもっともっと知るべきなのである。

この「でんわうるさい」事件は彼女の生き方、コミュニケーションの方法の根本を私たちに垣間見せてくれた。そしてこれが中庭事件への大きなヒントになっていくのである。

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彼女の心はいつも否定的な気持ちで満たされている。自分さえいなければ…、自分はいつでも邪魔にされている…、自分の存在は迷惑である…。

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実は、人間が何かを伝えたいとき、その多くは自分が利益を得るための行動として表現される。赤ちゃんだって「おっぱいが欲しい」「オムツを替えろ」、みんな自分の利益のためである。

彼女が中庭で寝たとき、私たちはまずその行動が何の利益を彼女にもたらすのかを考えた。

「もっと帰省をしたいのではないのか？」

「なにか帰省時に母親や父親に要求したいことがあるのではないのか？」

「静かなところで寝たいのではないのか？」

「一人になりたいのではないのか？」

いろいろの仮説が考えられ、実行に移された。しかし、彼女は中庭に寝たまま、三日が過ぎ、五日が過ぎた。

雨の降る夜があった。職員は慌てて布団を屋内に引き摺り入れた。それでも彼女は、再び雨の降る中庭に戻っていった。中庭に簡易テントが張られた。彼女の頑なな主張を引き受けるためだった。

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彼女の心はいつも否定的な気持ちで満たされている。自分さえいなければ…、自分はいつでも邪魔にされている…、自分の存在は迷惑である…。

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彼女の行動が、自分の利益を得るためでなく、誰かの利益のためになされているものだったら、いったいどのように理解できるのだろうか？発想のコペルニクス的転換だった。

彼女が明星学園星組に入所したことで、Ｎさんは雪組に異動になった。時々星組を訪ねてくるＮさんに職員は「ごめんね」とか「さびしくない？」とか「元気にやっている？」とか盛んに声をかけている。それを見ている彼女の感じ方はこうに違いない。

「自分が星組に入ったばっかりにＮさんはクラス異動になった。させなくてもいい辛い思いを私のせいでさせている。私さえいなければ、私さえ部屋を出て中庭で暮らせば、一部屋は空く。そうすればＮさんは星組に戻ってくることができる。Ｎさんには星組に戻ってきて欲しい。そうすることができるんだったら私は中庭で寝る。どうせ私は、みんなに迷惑をかけているんだから」と。

彼女の発信行動は、決して自分の利益のためではなかった。彼女は自己犠牲の道を歩んでいたのだ。

私たちは彼女に話す。

「Ｎさんはあなたのせいで異動になったんじゃないよ。Ｎさんも今から十年も前は今のあなたと同じように、とても苦しい時期があったんだよ。誰にも自分のことをわかってもらえなくて。

それから十年、職員全員が一緒になって、お母さんやお父さんの力も借りながら、どうやったら幸福になれるか考えてきたんだ。そうやって、もうすっかりお兄ちゃんになれたＮさんは星組を卒業なんだよ。決して追い出したわけじゃないんだ。

今度はあなたの順番なんだ。今度はあなたがこの星組で、職員みんなと一緒になりながら、お母さんやお父さんの力を借りて、どうやったらみんなと仲良くなれるのか、どうしたらみんな幸福になれるのかを考えていくんだよ。今の星組にはあなたが必要なんだ。職員全員があなたのことを一緒に考えたいと思っているんだよ。いろいろのことを教えて欲しいな。あなたと一緒にいろいろなことを勉強していきたいと思うんだよ。ここはあなたの星組です。あなたの今一番大切にしなければならないのは、Ｎさんの幸福ではなくて、あなた自身です。」

こうして、この夜から彼女の就寝場所は中庭から部屋へ戻った。